1794年6月3日- 韓昌国の鬱陵島検察
朝鮮官吏韓昌国が鬱陵島隣り島を詳しく記述する
鬱陵島の隣り島は “于山島”ではないと判明される。
1794年の春、朝鮮の標準手順によって、韓国は鬱陵島で状況を評価するように検査官(搜討使)を派遣した。以下のページは、搜討使韓昌国を代わりをして江原道監司沈晉賢か “政府が鬱陵島に年間 2回の旅行をするための手順と通知”する規則に従って、彼の義務を知らせるために公文書を韓昌国に送る。
以下は搜討旅行の記録だ。この報告書は韓国の鬱陵島に対する良いアイディアを提供するから重要だ。この報告書は鬱陵島に対して非常に詳しい記録を引き継ぐ。この報告書から、私たちは鬱陵島の隣り島の名前が明確にできる。この報告書には于山島に対する言及が出るか?
先に、いくつの地図を調査すれば、独島地域の概要が分かるようになる。下の左側地図は皆東海(日本海)を現わす。鬱陵島は歷史的に独島の西の方に位した。独島は西洋ではリアングコル岩と知られていて日本では竹島で知られている。多くの歷史記録も鬱陵島-独島地域で韓国が見えると記述する。下の右側地図は鬱陵島を言う。

上左側: 上記地図は韓国の東海岸、鬱陵島と独島を現わす。韓国政府は 2年または 3年間格で鬱陵島に検査官を送った。この航海は、蔚珍または三陟から始まった。鬱陵島行くのに 風が良ければ一日がかかることもできるが、地図は旅行時間が概して 2日かかることで表示する。上右側: 鬱陵島は地図は参照のために島の重要な地理的姿を現わす。
韓昌国の鬱陵島搜討(検察) 報告文の翻訳。

江原道觀察使沈晋賢狀啓言:
鬱陵島搜討, 間二年, 使邊將輪回擧行, 已有定式, 故搜討官越松萬戶韓昌國處, 發關分付矣。 該萬戶牒呈: “四月二十一日, 幸得順風, 糧饌雜物分, 載四隻船, 與倭學李福祥及上下員役、格軍八十名, 同日未時量, 到于大洋中, 則酉時, 北風猝起, 雲霧四塞, 驟雨霹靂, 一時齊發, 四船各自分散, 莫知所向。 萬戶收拾精神, 戎服禱海, 多散糧米, 以餽海神後, 使格軍輩, 擧火應之, 則二隻船擧火而應, 一隻船漠然無火矣。 二十二日寅時, 怒濤漸息, 只見遠海之中, 二隻船帆自南而來。 格軍輩擧手指東曰: ‘彼雲霧中隱隱如雲者, 疑是島中上峰也。’ 萬戶詳細遠望, 則果是島形也。 親自擊, 激勵格軍, 卽爲到泊於島之西面黃土丘尾津。 登山看審, 則自谷至中峰三十餘里, 而山形重疊, 谷水成川, 其中有可作水田六十餘石下種之地。 谷則狹窄, 有瀑布, 而左爲黃土丘尾窟, 右爲屛風石。 其上又有香木亭, 故斫取香木, 而以間年斫取之故, 漸就稀少。 二十四日到桶丘尾津, 則谷形如桶, 前有一巖在海中, 與島相距可爲五十步, 而高近數十丈, 周回皆是絶壁。 谷口巖石層層, 僅僅攀登而見之, 則山高谷深, 樹木參天, 雜草茂密, 通涉無路。 二十五日到長作地浦, 谷口果有竹田, 非但稀踈, 擧皆體小。 其中擇其稍大者斫取後, 仍向東南楮田洞, 則自洞口至中峰爲數十里許, 而洞裏廣闊基址, 顯有三處, 可作水田數十石下種之地。 前有三島, 在北曰防牌島, 在中曰竹島, 在東曰瓮島。 三島相距, 不過百餘步, 島之周回, 各爲數十把, 險巖嵂, 難以登覽, 仍爲止宿。 二十六日轉向可支島, 四五箇可支魚, 驚駭躍出, 形若水牛。 砲手齊放, 捉得二首, 而丘尾津山形, 最爲奇異, 入谷數里, 則昔日人家遺址, 宛然尙存。 左右山谷, 甚爲幽深, 難於登陟。 仍遍看竹巖、帿布巖、孔巖、錐山等諸處, 行到桶丘尾, 禱山祭海, 待風留住。 蓋島周回, 摠爲論之, 則南北七八十里許, 東西五六十里許。 環海則皆是層巖絶壁, 四方山谷, 則間有昔日人居之土址, 而田土可墾處, 合爲數百石下種之地。 樹木則香、栢、蘗、檜、桑、榛, 雜草則靑芹、葵、艾、苧、楮。 其餘異樹奇草, 不知名, 難以盡記。 羽蟲則雁、鷹、鷗、鷺, 毛蟲則貓、鼠, 海産則藿、鰒而已。 三十日發船, 初八日還鎭。 島中所産可支魚皮二令、篁竹三箇、紫檀香二吐莫、石間朱五升、圖形一本, 監封上使” 云。 幷上送于備邊司
“のお船で 80人の人々と準備して一緒に出発しました。初めに天気はよし、宵の口には濃霧と豪雨の嵐が来たから 4台の船かお互いに行き違った方向に入って行って私たちはお互いに視覚を失いました。このなかにで(タイトル)、落ち着きを維持するため、制服を着て海神に祭祀を差し上げて多くの食べ物を海に投げました。(タイトル)。その後、彼は信号のためにたいまつを持って 2台のお船とは回答があったが、しかし他の 2台の船か見られなかったです。22日朝3-5時の間に、南側で遠くて弱い波に帆を甘いのか 2台のお船が近付くのが見えたしその時、誰が東を示して「あそこ霧の中に雲のようにちょっと見えることは多分島の山の頂上のようです…” 上の右側: 一検察官が 30 kmから本鬱陵島のイメージ – (引き続き)
“..(引き続き)“…この言葉を聞いて、(…) 詳らかに見たらそれは島のみたいだった。(…) 彼は人々を督励するために太鼓を打って(…) まもなくこの島の西側で連れて行って船を停泊させた。山頂近所を点検したら、溪谷中間30里と頂上に重畳される席に町竝みあった。ここには狭い溝と瀧に沿って60個の畑の畝田があった。

左側は黄土丘尾谷なのに、右側は屏風石で北は香木亭であり、2年ごとに木を切り取ったから香木が珍しい珍しいある。24日に桶丘尾津に到着して谷間は桶木のように見えて頭上方は岩になった。海はその岩から50歩た。岩は非常に険しくて絶壁で取り囲まれた。私たちは谷入口に上がらざるを得なかったし、山は葛で生い茂っていた。木木は空を突くようにして葦が濃くてかきわけて行きにくかった…” ( 上: 赤い泥洞窟の黄土丘尾は韓昌国に上陸した所だ。-引き続き)

上左側: 韓昌国の上陸した所は黄土丘尾のちょっと右側谷間と川の方だ。上右側。香木岩はこの時韓昌国のとどまる所で北に言及されている。(二度クリックします)
“…“…25日に長斫之浦の入口に到着したがそこには竹畑があった。竹は珍しい珍しい出ていたしあまり大きくなかった。 竹を切りながら私たちは長斫之浦の南に向かって進んだ。

谷間下から頂上中間まで数十里で遠い所、田に活用されることができる 3ヶ所の席があった。そしてこれからは 3個の島があるのに、防牌島が北にあって、竹島が中間にあり甕島が東にある。これら島の間は火と百歩位で、まわりはそれぞれ数十坡だ。しかしこれら岩たちは尖ったようで険しくて上がるのがとても難しい。この岩たちの間が距離は百歩上だ…” (右側は鬱陵島の島目で取った竹島島の写真だ。韓昌国はこれを竹島と表現したし于山島と言わなかった。)

上左側: 鬱陵島北側石浦で西の方に見た上左側: 鬱陵島北側石浦で西の方に見た光景、そして後では竹島部分を見た光景だ息詰まりそうな光景だ。
そこで一日夜を過ごして翌日、26日私たちは可枝島に行ったが 4-5匹のあしかが飛び上がって驚いた。それらはおっとせいを似ていたし、その中二匹は鉄砲に何回叩かれて死んだ。丘尾津の地理的姿は非常に変に生じたし、10里位を谷間に入って行けばまだスポーティーな村が現われる。葛でいっぱいになった両方山はとても険しくなって上がりにくい。

次に私たちは竹岩、厚浦岩、孔岩、竹山などと調査を去ったし、桶丘尾に向けてそこで風が起きるのを待った。鬱陵島は南北で78-80里で東西では50-60里になって全体が険しい絶壁で取り囲まれている。昔に暮した家の跡地があって数百石の穀食を刈り入れる土地があった…” (左側は検察使韓昌国が見たような孔岩(鼻どうし岩)の拡大写真だ。) – 引き続き-

一番一般的な木木は香木、松、桑、はしばみなどだ。有り勝ちな植物は芹, 葵、よもぎ、麻、そして紙の木だ。そして名前をわからない木がいるが、名前が分からないから記録することができない。鳥の種類では雁、枚、鴎、そして鹛が暮す。動物としては猫、鼠が暮す。海産物では海草と鰒がいる。

船で 30日に発って、私たちは来月 8日に帰りました。そして、あしか皮 2個、黄竹3個, 紫檀石刻柱2個と5個の行廊を王様に捧げました…。”

結論 – 韓昌国による 1794の搜討レポートの分析
私たちがこのレポートを読んだ時、最初に明らかにすることは、200年前鬱陵島に関する朝鮮の方針だ。問題については多くの日本の意見とは違い、朝鮮の鬱陵島空島政策は “防弊”の形態ではなかった。上の点検は決して選択ではなかったことを明らかにしてくれる“鬱陵島を 2年に一度ずつ順番どおり点検する公式的規則によって鬱陵島巡察旅行をする…” このように,韓国がすっかりこの地域を「捨てなかった」と言うのは明らかだ.実際,朝鮮は不作と難しい時期にも、この報告書で言うように朝鮮はこの地域を続いて調査した.彼らは鬱陵島から動物と資源(例えば紫檀と海鹿)を集めた。

次に、このレポートは明らかに鬱陵島と周辺小さな島の名前を取り上げた二つの見て中の一つだ。多分、防牌島は鬱陵島北西の方の角のいわゆる観音島だ。一部日本人が主張するおかゆも島は于山島だ。ただ竹島島だと呼ぶことは地図に現われたところのように竹島と于山島ではないことだと 1880年の李奎遠の他の報告書に同意するところだ。最後の島の性格は不明だ。

上のイメージ: 絵は韓国人が言う竹島の西の方面だ。一部の日本人は韓国人がこの島に頼りながら暮したと主張する。しかし,小さな島の地形と水の不足のためこれは正しいようではない。 (クリックイメージ)
沈之灦によって伝わる情報のまた一つの価値のある部分は、竹島(防牌島)の地形に対するのだ。李奎遠は 1 世紀後に言うのを 竹島(韓国人が言う)はあまりにも険しいから上がることができないです。竹島((防牌島)壁はおおよそ 100メートル高さで、非常に険しいです。植樹が 竹島で発見されなくてこの島は生活するためではなく船を停泊させるこれして使われた。

この文書の最後の部分は、彼らが鬱陵島を調査した方法について簡単な説明をする。それは,島の周りを圓周に測定する韓国の伝統的な方式で鬱陵島まわりを100里としたことは意味がある。
測定方法は船で鬱陵島四方周りを回る距離と鬱陵島に着く時間と距離を勘案して加える方式で測定したはずだ。