安竜福と独島-竹島 1
朝鮮(韓国)人安竜福と独島
朝鮮住民たちが日本人の朝鮮鬱陵島と独島侵入に抗議する。
次のページは朝鮮の鬱陵島と独島に不法航海した日本人に対して対抗した朝鮮である安竜福に対する詳細な二つのシリーズの中一つだ。今日まで、史家たちはこれら論争で正確に何の事が起こったのか論難をしている。韓国と日本記録を皆読んで見れば、私たちは日本はその島と係わる地域の地理と歴史的関係を検討した後、鬱陵島と独島を皆朝鮮に譲渡したことを結論で下すことができる。しかし先にこの地域に対する簡単な紹介をして見よう。

獨島 독도 dokdo takeshima liancourt A map shows distances to Korea and Japan from DokdoA highly detailed map of Chosun's Ulleungdo Island 獨島 독도 dokdo takeshima liancourt

上左側: 鬱陵島–独島地域全体的な地図は日本と韓国の一番近くの陸地位置を見せてくれる。上右側: 韓国の鬱陵島地図。ここで安竜福と他朝鮮住民たちは 2回や日本人の朝鮮領土侵入に対して抗議した。
“安竜福はだれか…?”
독도 獨島 竹島  たけしま An Yong Bok Statue安竜福は釜山東莱人で、朝鮮の肅宗王時代に1693年と1696年、二回日本に渡って日本幕府に公式的に鬱陵島と独島朝鮮領土というのを認識させた重要な役目を一人だ。彼が若かった時、安竜福は水軍で船子に服務したし、倭寇と知られた日本海賊を見張って沿岸地域を保護する役目をした。彼は釜山に住む間に日本語が上手だったし、朝鮮に居住する日本人たちのための倭館(日本である居留地)によく出入りした。

このページで説明する第一安竜福事件は1693年春に発生した。釜山と蔚山から来た約40人の朝鮮漁夫たちが鬱陵島で大谷と村上の漁夫たちと会う。安竜福とバックオドンは鳥取県米子(現在-鳥取県米子市)で拉致されて行く。

右側には釜山にある銅像で、朝鮮は朝鮮人たちを二回日本に連れて行って日本人の鬱陵島と独島侵入を抗議した安竜福を記念する。今日まで、この価値のある歴史的資料を無視しようと試みる日本であるロビイストたちの努力にもかかわらず、安竜福の活動は独島と鬱陵島紛争で韓国主権を強く表示したことで残っている。

An Yong Bok monument on Ulleungdo Island for Dokdo Takeshima 독도 獨島 竹島 たけしま15世紀初期、朝鮮は倭寇たちの侵入から鬱陵島住民たちを保護するために、島で移住させる政策を施行して来た。日本漁夫たちは17世紀初期から当時その島に人が住まない有利な点を機会で鬱陵島沿岸で漁業活動をして来たことと知られている。

左に、朝鮮の鬱陵島は安竜福の勇敢性を記念する記念碑を建てた。安竜福は当時政府から不公正に待遇を受けたが現在韓国人たちは彼を朝鮮領土を守った勇気で英雄で待偶している。安竜福の活動がなかったら、今日まで鬱陵島と独島は皆日本領土になったかも知れない。

安竜福は伯耆州藩主を通じて 幕府に鬱陵島(竹島)は朝鮮の領土と抗議したし、州の藩主は安竜福事件を幕府に指令を下してくれと言って要請した。幕府は安竜福と朴於屯を長崎に連れて来るようにして、ここで対馬島政府が彼らを連れて行って二名の使者立花實繁とTadayo Saemonとともに1693年12月本国で送還するようにした。これら使者たちは単純に一般漂流者たちを送還する人ではなく、彼らは儀典次官に送る公式書簡をお持ちしていた。

手紙では竹島(鬱陵島)が日本の所有という重要な主張が盛られていた。その内容にはTadayo Saemon人たちがよく日本の竹島(鬱陵島)で来て漁業と伐採をすると記録して、二人は竹島で見つけた 40人の中で伯耆州のボンズによって人質につかまって来たと記録した。手紙にはまたその人質たちは江戸に行かせられて送還されたと言った。そして、手紙では朝鮮政府に勅令を下げてTadayo Saemon人たちが竹島に漁業活動を慈しんで行くのできないようにしてくれと言って要請した。

幕府の代わりをして対馬島使節が持って来た公式書簡は竹島が東海で鬱陵島と違う島で存在することのように主張して、Tadayo Saemon人たちの竹島(鬱陵島) 漁業活動は不法的で、したがって、鬱陵島は日本に属して漁業権利は日本にあると主張した。この手紙を受けた後、朝鮮政府対抗する可能な手段を講じた。しかし、日本との激しい戦争を経験した後だからTadayo Saemonは日本との衝突を避けようと思って、日本に鬱陵島はTadayo Saemon領土であり、しかしTadayo Saemon人たちが竹島で漁業は禁止するという内容を回信下だった。

朝鮮最初の柔順な回答
大臣權啓辭が対馬島主に送った書信内容一部:

“..我が国は漁夫たちの外国海渡海を厳格に禁じています。たとえ私たち領土鬱陵島に度してもとても遠いから禁止されています。どんなに彼らに私たちの境界を移ることができるように承諾したんですか?私たちは帰国の友好善隣的な姿勢に感謝して帰国の竹島領土で航海して入って行った問題のお舟を回送させてくれたのに感謝いたします。漁夫たちは漁業で生活をして、嵐に漂流されて苦痛にあったりします。しかし彼らの渡海行為と深く侵入したことは法で処罰されて当然です。現在法によって犯罪行為に処罰されるでしょう. …”

対馬島はどうして朝鮮がその島を “私たち領土鬱陵島”と表示したのか疑って、もしTadayo Saemonの手紙でその単語が削除されなければ 幕府が対馬島主を処罰するか恐ろしがった。対馬島与える朝鮮にただ竹島に対してだけ記述して、問題視になる単語を抜いてくれるように要請した。1693年安竜福を送還した立花實繁(Tachibana Saneshige)はまた朝鮮に行って手紙の改訂命令に対して交渉した。

第一、立花(Tachibana)は朝鮮に行くのをためらったがなぜなら、彼は “少論” なが葱が権力を取っているし、南九萬は日本に対して強硬路線を選んで、肅宗王に鬱陵島を日本に譲渡しないことを主張したからだ。しかし朝鮮政府は日本人が “私たち領土鬱陵島”という単語を削除してくれという要求は結局鬱陵島島を占めようとする目的という結論を下して、肅宗王に鬱陵島で航海する日本人たちを処罰するように建議した。

その外にももし日本が鬱陵島を占領する場合に江陵と三陟地域も被害を被るか気づかって鬱陵島に軍事陣地を建設する問題も論議した。張漢相は三陟地域で部隊長で任命を受けて鬱陵島に行って陣地驅逐のための準備をした。
( ここで張漢相の鬱陵島報告書を見ます ) 論議の中心には南九萬と尹止完のあるのに彼らは老論派として日本に対して宥和政策よりは強硬策を主張した人々だった。朝鮮の答信を変更しようとするダチバナの交渉は予想より易しくなかった

竹島 たけしま korea's ulleungdo island from 30 kms away竹島 たけしま korea's ulleungdo island from 60 kms away

上の写真は韓国の鬱陵島だ。左側の写真は鬱陵島西の方30km地点で付けたことで上がった方写真は浦項に行く島に60km離れた所だ。天気条件はあまり理想的ではなかったが、遅い午後でちょっと陰うつな天気だった。
朝鮮は強硬策で国土を守る。
朝鮮は一番目答信を廃棄して左議政李要の名前で二番目答信を送る。手紙の要旨は次のようだ。

“鬱陵島は蔚珍県の海中にあり、険しい条件のため海岸道路は不便だ。したがって居住民たちは撤収されて島は現在空いているが、調査のために官吏はたまに派遣される。山河は秀麗で地形は不規則的にうねる。鬱陵島の住民と生産物に対するこの記録は與地勝覽に収録されているし、その内容は時代を引き継いで続いて記録されている。我が国の漁夫二人がその島に行ったが、我が国の領土を侵入した漁夫たちを偶然に会ってお互いに衝突した。

二名の朝鮮である漁夫たちを不法的に拉致して江戸に連れて行ったが、江戸幕府の将軍の思いやりで彼らは帰還されたことを有難く思っている。その事は我が国の鬱陵島浜辺漁業場で起こった事です。竹がたくさん伸びているから、その島は同じ島を竹島と違うように呼びます。一つの島を二つの名前と呼ぶことは我が国の本に記録されているし、その島の国民はこれが分かっています。日本人たちが我が国の境界を越えて来てさまざまなブンタングジルをして朝鮮人を拉致しないことが道理だろうが、封書では返って Takeshimaを帰国の領土と主張して韓国人たちの漁業を禁止させるか?この事件は将軍に報告して浜辺に住む帰国の国民が鬱陵島で航海して事件を起こさないように願います。…”

私たちは二番目朝鮮の返事は一番目より非常に強硬だということを見られる。鬱陵島は江原道蔚珍県の海の中存在して、鬱陵島と竹島が違う名前だが、しかし現実的には同じ島であり、したがって鬱陵島は朝鮮に属して、日本人たちが鬱陵島へ来ることとそこで漁業をすることを禁ずると明確に規定している。

しかし対馬島主宗義継(So Yoshitsugu)は、幕府使節ユチップイルによって問責を受けるか恐ろしがって朝鮮の返事を拒否して、漢城(ソウル)から東莱に来て日本使節に会いに来た歴官は手紙を伝達して応待しなさいという調整に命令を遂行することができなくて帰らざるを得なかった。Tachibanaが期待したところのように第一手紙で文句を削除する交渉は朝鮮の強硬策に翌年 1695年 6月にも解決されなかった。したがって、対馬島はTachibanaとともに九州の有名な理論家Suyama Akira(Suyan Shouemon)を派遣して返事の内容を変えようと交渉する。Suyanは東莱副詞に手紙を伝えてどうして朝鮮が手紙を改正するのを拒否するかどうかを問って 1695年5月その手紙を調整に伝えるのを要請した。しかし、朝鮮は古書に鬱陵島は82年前の1614年に空島政策を施行する前から朝鮮に属するという点を引用しながらずっとそれを拒否した。

日本は鬱陵島と独島を譲渡することに見逃す。
独島-竹島-1696年1月、日本は正式に鬱陵島と独島を抛棄次の記録は独島竹島紛争で一番重要な資料の一部分だと言える。たとえこの手紙に独島は朝鮮に譲渡するという記録はないが、一緒に係わる引用記録を見れば、例えばドットリ – 幕府 記録で明確に日本は独島(当時松島)をまたあきらめた。
( リンク鳥取幕府記録 )

私たちがもっと分かるところのように、1696年1月幕府は最終的に老中の名前で伯耆州と対馬島に公式書簡を送る。

公式書簡には次のような指令が含まれる:

“..竹島は因幡州に属すると言って来たが、しかし日本人たちはそこに住んだ事がない。德川家光の3代将軍であるItokukun時代に、米子村の商人たちがそこに漁業のために要請をして承諾した。地理的に、その島は因幡州で160里(640kms)落ちた一方、朝鮮ではただ約40里(160 kms)位落ちている。したがって、それは疑うところなしに朝鮮の領土だ。この国は軍事力で解決することができるが、この小さな島に対して相互間の交隣と係を害しないことが私たちの政策だ。はじめからその島は朝鮮から力で奪ったのではなくて、そしてそれを私たちに返すからといって意味はない。ただすべきことは永久的に日本人たちがそこへ行って漁業活動をしないように禁止するのだ。したがって、この事実を朝鮮に知らせなければならない. …”

安竜福連中の二番目日本航海と朝鮮との鬱陵島の対立
ここで私たちは朝鮮の鬱陵島領土所有権と漁業権利は幕府の1696年公式書簡で確認されたことを分かる。朝鮮は1696年10月通訳官を対馬島で礼儀で訪問使節を送ることに計画して、対馬島は朝鮮の竹島(鬱陵島)所有権に対する 幕府の決定を知らせようと意図した。

しかし、1696年夏以外な事件が発生した。鬱陵島紛争で対馬島が手紙を直ちに収容することを拒否して解決されなさとして、安竜福は日本人の鬱陵島侵入と漁業問題を個人的に解決することに決める。安竜福が導く11人の朝鮮である集団が鬱陵島と独島(当時松島)を経って因幡州(現在鳥取県)と伯耆州(鳥取県)に行って幕府に直接鬱陵島(竹島)と独島(当時松島)は朝鮮の領土なのを抗議する。安竜福は彼の漁夫たちとともに1696年春に鬱陵島に行って日本人たち何人と漁舟たちが止まるにとどまっていることを見た。

“…安竜福は日本人たちに叫んだ: “どんなに朝鮮の固有した地である鬱陵島に侵入したのか?” 当時日本人たちの返事: “私たちは元々独島(当時 松島)に暮すのに、しかしここで漁業のためにたまにとどまっている、したがって私たちは私たちがある所に帰るでしょう。” 安竜福はまた彼らに訓戒するのを “独島(当時 松島)は子山島(于山島、独島)としてそれはやっぱり朝鮮の地だ…”
歴史記録によれば、翌日彼らは于山島(独島)に行って、日本人たちが大きい釜をかけて魚を料理することを見た。安竜福は棒でそれを壊して日本人たちを罵りながら追い出したし日本人たちは舟に乗って自分の国に帰った。

当時安竜福と彼の仲間たちは直接隱岐を経って因幡州に行って鬱陵島と于山島に対して抗議した。彼らは因幡州政府に偽りで言うのを彼らは鬱陵資産譲り渡し減税官だと言った。彼らは政府の抗議書を因幡州政府に伝達して日本人たちの不法鬱陵島航海を禁止させるように 幕府に要請した。

朝鮮国記録によれば因幡州政府は対馬島主によって鬱陵島と独島に侵入した者等を処罰することを約束したし、もしそんな問題が発生すれば朝鮮政府は日本に公式文書で訴訟をすると言った。

朝鮮歴史記録文書たちに現われた安竜福の公式証言
下の証言は1690年代安竜福が鬱陵島に対して抗議した内容だ。イメージたちは韓国記録保管所から出た実際文書たちだ。この情報の多くの部分は日本の文書たちにも記録されていることを分かる。
( 新たに発見された安竜福事件に関する日本の村川記録 ) 005年 3月 16日日本の記録が発見される前まで多くの日本学者たちは安竜福事件が偽りであり、他の人々は独島(当時 松島)が介入された事件ではなく、隣り島鬱陵島に関することだと主張した。私たちはこれが間違ったことを見られる。

An Yong Bok declares Dokdo Island is Korean たけしま 獨島 竹島たけしま 獨島 竹島 An Yong Bok dispute recordAn Yong Bok and Dokdo Island たけしま 獨島 竹島

上の写真は安竜福証言に関する詳細な韓国歴史的文書たちだ。これら記録は第一、于山島は独島(当時松島)で、二番目安竜福事件は鬱陵島だけでなく、隣合う島独島(当時松島)にも係わることだということを明らかにしてくれる。日本人の鬱陵島に対する論争に関する安竜福の証言 .
鬱陵島関する安竜福の証言の翻訳
“…安竜福と違う人々の審問で安竜福の証言..”

“…私は東莱に住んでいるし、私は蔚山に住むお母さんに会いに行きました。ところが、そこに私は偶然に雷憲お坊さんにお会いして私と一緒に鬱陵島に行く問題を話しました。やっぱり彼らもその島は豊かな海産物があって利益になると言いました。その後私たちは皆一緒に領海に住む舟子劉日夫に会ってその島に到着しました。3個の峰を持った島は三角山より高かったです。その島の南側で北末に到逹するには 2日がかかったし東西でも同じでした。そこには多くの木と、枚、からすそして猫たちがいました。そこにはやっぱり何何日本人たちのお舟がそこにあったしそして漁夫たちは恐ろしがりました。したがって私はこれからひいては言うのを、“鬱陵島は朝鮮に属するのにどんなに日本人たちが敢えて我が領土を侵犯するか?私は君たちを皆逮捕する。” そして私はお舟前にひいてはドドルを大きく叱りました。当時その中の一人が言うのを “私たちは松島に暮すのに偶然にここで漁業をしに来ました。… もう私たちは私たちがこれからその所に帰ろうと思います。…。” したがって私は言うのを “君たちが言う松島は子山島 (于山島)でそれもやっぱり我が領土だ。どんなに君たちがそこに住むか…。?”

次日朝早く私は子山島(松島/独島)に行ってそこに到着したが、日本人たちは大きい釜をかけて魚を料理していました。私は木棒を持ってそれを打ち下ろして、彼らに叫びました。彼らは慌てて荷物を安くて舟に乗って去りました。そのため、私は私たちの舟に乗って彼らを追い掛けたが、しかし私は急に暴風に会って玉岐島で漂流して来るようになりました。そこで島の村長が私に問うのを私がどうしてそこへ来たのかを問いました。私は答えるのを“私が何年前ここへ来た時、鬱陵島と子山島は朝鮮の領土と決まりました。そして公式書簡 (これは日本人たちがこの島地域に魚を取ることができないように決めたことを意味する)を関白が作ってくれました。まだこの国は適切な方式で取わないで我が領土でまた侵犯した。これはいくら誤った仕事かこれ?

ここに対して彼が答えるのを彼が確かに伯岐州に手紙を送ったが、しかし長い間返事がなかった。したがって私は怒して舟に乗って直ちに伯岐州に行きました。私は鬱陵島と子山島の譲り渡し減税官だと紹介しました。そして本土島に行くように要求しました。私は何人々と一緒に馬に乗って本土島に行きました。

したがって、私は青色官吏官服を入庫、黒い帽子と皮履をはいて人がひく車に乗って、他の人々は馬に乗って村に行きました。私たちが到着した後、島の 藩主と私は部屋に対座して他の人々は下の床に座りました。藩主は問うのを、“ここは何しに来たのか?” そして私は言うのを、“二つの島々に関する公式書簡が作われたことは確かだが、しかし対馬島主が手紙を奪ったし、内容を直して何回や我が領土を侵犯して私たちの約束を破りました。したがって私はこれらの不法活動に対して政府に報告して知らせようと思います。…”

この言葉を聞いて、藩主は納得した。最終的に李仁成はこの事件に関する報告書を作って王に報告しようと思ったが、対馬島 島主の父親伯岐州が言うのを “万である手紙が王に伝達すれば私の息子はひどい処罰されるようになってたまらないしかない。したがってその手紙を伝達するな違う。。” 彼の要請に従って手紙は伯岐州官吏に伝達しなかった。しかし朝鮮領土を侵犯した日本である15人は処罰される。彼は続いて私に言うのを、“その二つの島々はもう貴国(朝鮮)に属する。したがってもしどんな人やまたは藩主が朝鮮領土に侵犯するとかすれば通訳官家一緒に国家の書簡を日本に送りなさい。それではそんな侵入者たちには中限処罰をする。…”

この話をしながら、彼はちょっと人々を私たちと一緒に送ろうと思ったが、しかし私は断りながら言うのを私はどんな便利も望まなかった。雷憲お坊さんのお話と違う人々の言葉も同じな話だった。

備辺司官吏が王に言うのを、“次にここについて私たちにより詳細に話してくれるようにしてください。。。”

ここに王は承諾した。…..

安竜福事件問題解決
結果的に日本政府の1696年公式文書に解決される、ここで言った内容の一部は“もとよりその島は朝鮮から力で取ったことがなくて、それを日本に持って来るからといって何らの意味がない。” それは竹島(鬱陵島)と松島-独島(当時松島)は朝鮮の固有した領土だから日本はその島に対して絶対的に紛争を起こしたい意図がない。

対馬島は鬱陵島問題をこれ以上複雑にさせる考えがなかったし、また中間媒介者の有利な位置を失いたくなかった。結局、対馬島は幕府と交渉して安竜福を説得して彼の手紙が因幡州を通じて幕府に伝達することができaようにするずに、また朝鮮人たちを放逐する式で扱って返すようにした。結局、鬱陵島と独島領土紛争を起こした安竜福と彼の仲間は撤収されて、彼らは朝鮮の漂流者に送還された。安竜福問題が解決された後 卞同知と宋判事は対馬島に行ったし、本州は鬱陵島問題に関する幕府決定を通知したが、しかし因幡州との接触を抗議して朝鮮に対馬島以外にはどんな地方とも鬱陵島問題で接触しないことを要求した。

たとえ日本政府の決定はもう1696年に作られたが、朝鮮は対馬島から帰って来た使節の報告書そして東莱府使の連絡によって手紙が遅く1697年に伝達したことが分かるようになった。

17世紀末幕府の決定は明確に朝鮮の鬱陵島領土所有と漁業権利を確認したが、兩国家の海岸住人たちは鬱陵島航海を完全に中断することができなかった。

19世紀中葉、日本人たちは竹島(鬱陵島と独島)は元々日本領土だったが、朝鮮に譲渡したように使い始めた。対馬島は幕府が論じ合った1837年鬱陵島侵犯が問題視になった時日本は1696年に竹島(鬱陵島)を朝鮮に“譲り渡し”したし、その島への航海は禁止されたと答えた。この声明は竹島が元々日本島だが、朝鮮に譲り渡しされたと間違って認識するようにすることができたし、鬱陵島と独島に関する 幕府の知識を誤導することができた。こんな認識は最終的に幕府政権が竹島(鬱陵島と独島)を朝鮮に譲渡したことは誤った決定という認識を続いて持つようにした。

安竜福と独島の所有権問題
竜福事件”は鬱陵島と独島に関する紛争で名前をつけたが、しかしそれは誤った名前だ。日本と朝鮮文書たちが私たちに見せてあげたところのように、11人の朝鮮人たちは 1696年に抗議して訴訟したことが何やら正確に明かされた。朝鮮文書たちで明らかにしたように “。。雷憲と色々他の人々が言う話内容は同じだ
…” 何何日本学者たちは皆日本と韓国で記録された歴史的事実が何なのかを誤導するために安竜福事件の性格を問題視して重要な歴史的事件を無視しようと思っている。

2005年3月16日、日本の記録が明かされる前まで、いくつかの日本史家たちは安竜福が言った子山島が鬱陵島の隣の島竹島と主張した。しかしこの解釈は何種類理由で意味がない。第一竹島 島は鬱陵島で約 2km の外に落ちなかった。もしそうだったら、事実上これら日本人の侵入に対抗するために安竜福は櫓を漕いで 10分の外にかからない島に行くために翌日まで冒険をして待つ必要がなかったはずだ。第二、竹島は約 100メートル高さの絶壁とともに飲み物もなくてお舟をつけるに値する繫留場がないことを見せてくれる。何何鬱陵島で日本人たちがキャンプを開いて一番良い繫留場で見られる所がこんな険しい絶壁だと見ることは合理的ではない。

An Yong Bok States Usando is 50 ri from Ulleungdo たけしま 獨島 竹島これら事実たちを皆総合すれば、2005年3月16日文書たちは歴史的に島根県村川家門記録は1696年に起こった事件に対する事実を足明らかにしてくれた。これら文書たちは何種類ちょっと詳細な内容を初めて明らかにしてくれた。安竜福が隱岐島を航海して行った時、彼は江原道に竹島(鬱陵島)と松島(独島)が含まれた地図を持って行ったというのだ。ひいては鬱陵島と独島の位置は50里で、これは竹島が鬱陵島で2km 離れたという点とはとても遠い距離だ。

右側文書には 2005年3月16日、村川記録で安竜福自分が言及した子山島(独島)はウルルングドエソで50里遠ちていると言ったことであり、これは他の島である竹刀とはとても遠い所にある。

A picture of Korea's Dokdo Island on a hazy day 독도 獨島 竹島 たけしまる日本人たちはこの紛争で鬱陵島とともに独島は含まれなかったし、したがって独島航海は禁止されなかったと言う。私たちが独島の效用を思う時、日本人たちに独島という小さな岩島はどうして大きい問題ではないか明確になる。

左側では写真は霧立ち込めた日西の方から東に見て取った独島イメージだ。安竜福の日本隱岐島まで航海は独島を可視的な距離内で置いて成り立ったことと考えられる。

すべての目的のために、鬱陵島はこの紛争で最大の目標だった。この島を朝鮮に “譲歩”したことは当時日本としてはすごい損失だったろう。これと共に鬱陵島日本人は独島が鬱陵島で漁業をするためにしばらくとどまる所に過ぎない場所で使われるだけ、これ以上独島を貪る理由がなかった。ある歴史記録と地図でも独島で鬱陵島と分離しなかった。

第 2 部安竜福と独島は次ページに続く
次ページに安竜福仲間が1696年5月、日本の隱岐西村東鄕の北浜辺に到着した詳細な内容を説明する日本の村川上記録に関する詳しい記事が載せられている